【留学体験談・第1話】渡米初日から途方に暮れるも救世主現る

私は日本で大学を卒業後、すぐにアメリカに留学しています。1992年の5月のことでした。留学を終えた後は、そのままアメリカに残りLAで働いていました。

留学と仕事を合わせて、アメリカには結局1992年から2007年までの15年間住んだことになります。あっという間の15年でしたが、私の人生を大きく変えた15年でもありました。

アメリカでの15年間の生活・経験・体験がなければ、今の自分はもちろんありません。もちろん、大学を卒業してすぐに渡米を決めたことは全く後悔していません。

後悔どころか、社会がバブルに湧くあの頃、『就職』などには目もくれず、渡米という道を選んだ自分を褒めてあげたいです。本当に良かった。

本記事では私自身の留学経験、そしてアメリカでの生活体験を元にお話したいと思います。

これから留学をしたいと思っている人たちの少しでもお役に立てればと思っています。ぜひ、今の気持ちを捨てずに実行に移してほしいと思っています。留学によって、あなたの人生が大きく転換する可能性大です。

アルバイトを掛け持ちし留学費用を貯める

アメリカに留学することは、大学卒業の2年前から決めていたので、この2年間は3つ、時には4つのアルバイトを掛け持ちし、とにかく留学費用を貯めることに専念しました。

朝3時から魚市場で働き、その後トラックでの学校給食の配送、昼間に大学で卒論を書き、夕方から塾の講師(または家庭教師)をしていました。この生活をほぼ毎日続けていました(若かったからできた)。

毎月30万円ほどの収入がありました。2年間のお勤め(?)を終えるころには、それなりの金額になっていました。

留学の情報収集ができない!?

今のようにインターネットがあれば、ちょこちょこっと調べることができますが、1990年代初期にはまだネットというものが存在していませんでした(もしかしたら、コンピューターオタクの間では既にあったのかも)。

そして、私がアメリカで勉強したかったのは、ちょっとマニアックな領域(ATC=アスレチックトレーナー、DC=カイロプラクタードクター)でした。

もちろん、当時も書店に行けば留学関連の書籍はたくさんありましたが、一般的な留学のことばかりで私が知りたい情報は何もありませんでした。

そこで、「とりあえず、現地(アメリカ)に行って状況を調べてから判断しよう」と決めました。

学生ビザ(F1)を独力で取得

留学するためには、お金(費用 )以外にアメリカに滞在するためのステータス(ビザ)が必要です。留学なので学生ビザ(アメリカだとF1ビザになります)を申請しなければなりません。

このときは、留学雑誌を参考にしました。今ならいくらでもネットで情報が拾えるはずです。揃えなければならな必要書類でもっとも大切なのは以下の2つです。

  1. 銀行の残高証明
  2. 留学先の学校からの入学許可証(I-20)

ドル建ての残高証明書を取得

銀行の残高証明書はドル建てで取得しました(そのように指定されたので、まあ当たり前ですね)。2年間必死に貯めたので、銀行残高は数百万円ありました。この書類はまったく問題なし。

そして、問題は入学証明書です。

入学証明書(I-20)を何とかゲット!

この時点ではATC(アスレティックトレーナー)の道へ進むかDC(カイロプラクティック)の道へ進むのか決めていなかったので、学生ビザを取得するために語学学校に入学することに決めました。

ここから、語学学校との手紙でのやり取りが始まります。先にも書いたように、当時はインターネットがなかったので、連絡手段は手紙(エアメール)しかなかったのです。今なら、メールがあるから簡単・迅速でいいですね。

そして、何とか現地の語学学校から入学許可証(I-20)を取得することができました(今ならメールの添付ファイルで送られてくるのかな)。

アメリカ領事館へ全書類を郵送

その他もろもろの書類を揃え、パスポートと一緒に東京のアメリカ領事館へ郵送。今は面接が必須のようですが、1992年当時はそんなものもありませんでした。

1週間もしないうちにF1ビザのスタンプが押された私のパスポートが戻ってきました。これで、留学前の準備は全て整いました。

学生ビザの申請は是非とも独力で!

学生ビザの申請を請け負っている業者がありますので、そちらに全ておまかせも可能です。ただし、かなり高額(10万円単位)の請負料金を請求されるはずです。

しかし、私個人の経験から言えることは、「これは絶対に独力でやるべき」です。なぜなら、学生ビザの申請さえ自分でできない人間が、右も左もわからないアメリカでの生活をやっていけるとは思えません。

アメリカはいい意味で個人主義の国です。実力のない人間、ぼーっとしている人間は食い物にされるだけです。自分でできることは、誰にも頼らず何とかやってしまうというガッツが必要です。

学生ビザの申請くらい、是非とも独力でやってみましょう。思ったより簡単ですから。ここでつまづくようなら、留学そのものを考え直した方が良いでしょう。

いよいよ渡米

アメリカ行きの航空チケットは、大学の生協で購入しました。もちろん片道切符です。確か8万円台の前半でした。ご存知のように飛行機のチケットは片道でも往復でもそれほど値段が変わりません。

今ならネットで最安値の航空チケットを検索するのですが、(何度も書いているように!)当時はネットがありませんでした。今ならもっと安いチケットがあるかもしれません(最近はアメリカに行ってないのでわからない)。

当時は大学の関係で仙台に住んでいたので、渡米当日にアパートを引き払い、そのまま成田へと向かいました。両親からは渡米を反対されていたので、実家には寄らずそのまま渡米したのです(成田から電話はしましたが)。

初めての海外、しかも単独での渡米。行先はロサンゼルスのLAX(ロサンゼルス国際空港)でした。日本から10時間(?)くらいのフライトでしたが、何も覚えていません。

しかし、LAXに到着したときのことは、今でもよく覚えています。なぜなら、空港を抜け出すのにどうしたらよいのか、まったくわからず、あっちへ行ったりこっちへ行ったりうろうろしていたからです。

もちろん、留学先の人が迎えに来ているなんてことはありません。独力で現地に行かなければならなかったのです。しかし、今ならネットがあるから(しつこいようですが(笑))、『空港からの行き方や交通手段』を事前に知ることはできますが、当時はそんな情報もありません。

まさに行き当たりばったりでLAXに降り立ったのです。しかも初海外。とても不安だったのを覚えています。

LAXでアジア人のおばさんに声を掛けられる

しかし、世の中には優しい人がいるものです。右往左往している私を見て、初老の女性が声をかけてきました。見かけは日本人のおばさん。ですが、もちろん英語で話しかけられました。

行先を書いたメモを見せると、「ここからバスで終点まで行って、そこからタクシーに乗り換えなさい」と親切に教えてくれました。

とりあえず、「これで何とか空港を抜け出せる!」と、ひとまず安堵。この時点で空港に到着してから既に3,4時間は経過していたと思います。

何とかして目的地に着いたものの想定外の事態が発生

私が入学証明書のI-20をもらった語学学校にはドミトリーがありました。希望すれば、入学とセットでドミトリーにも入居できます。もちろん、別途費用がかかります。

現地でアパートを探すというのは、当時の私にとってはとても難易度が高かったので、当然ながらドミトリーもセットでお願いしてありました。

タクシーの運ちゃんに地図を見せて、たどり着いたときにはすっかり日が暮れて暗くなっていました。確か午後6時過ぎだったと思います。空港に到着したのが、午前10時ころだったので既に8時間が経過していました。知っていたら1時間程度しかかからない場所です。

ドミトリーは確かにある。しかし、受付らしきデスクには誰もいない。その辺をうろうろしていたドミトリーに住んでいると思われる人にたどたどしい英語で聞いてみると、「今日はホリデーだからお休み」とのこと。ガーン。

その日は、今でも忘れない1992年5月の第4月曜日。なんと「Memorial Day/メモリアル・デー」だったのです。ということで、今晩はドミトリーに泊まれない・・・。既に日も沈み辺りは漆黒の闇となっていました。

人生で初めて「途方に暮れる」経験をしました。しかも異国の地アメリカで。

途方に暮れて当てもなく徘徊

ドミトリーに泊まれないことを悟った私は、当てもなくフラフラと歩きだしました。しかも、大きな荷物を抱えたままです。重たい荷物が肩に食い込んで痛かったのを覚えています。

ホテルに泊まろうにも、観光地でも何でもないこの田舎町にそんなものは見当たりません。しかも、1ブロック当たりの距離がとても長い。歩けど歩けど、ほとんど景色が変わらない。

この時ばかりは、さすがに焦りました。「まさか、ここで野宿なのか?」、「いや、野宿なんかしてたら身ぐるみはがされてしまうんじゃないのか?」と頭の中は妄想だらけ。

しかし、遥かかなたに何やら日本語らしき電光看板が見えてきました。その看板には遠目にも『ビデオ』とカタカナで書かれてあるのがわかりました。

再び女神現る!

異国の地で頼れるのは、やはり同士の日本人です。あの『ビデオ』と書かれた看板のところに行けば、日本人に会えるかもしれない。そしたら、「事情を話して助けてもらおう」という一心で看板めがけて歩を進めました。

お店の中に入ると、日本からの輸入品らしき雑貨や食品(インスタント食品や調味料など)が所狭しと並べられていました。

お店のカウンターのそばにアジア人らしき女性が二人いました。恐る恐る、日本語で話しかけてみると、ちゃんと通じました!やはり日本人だったのです。久しぶりの日本語(と言っても24時間程度ですが(笑))にとても感動しました。

二人ともまだ30代前半くらいの若い女性でした。

一人はそこで働いている店員の方、もう一人は店長であることがわかりました。これまでの経緯を早口でまくし立てるように話すと、すぐに店長の女性が近所のホテルに電話をして部屋まで取ってくれました。

その後、店長の女性がわざわざ、ホテルまで車で乗せていってくれたのです!まさに救世主、女神です。別れ際に「何かあったらここに連絡をして」と連絡先の電話番号までくれました。

右も左も全くわからない心細い状況の中、こんなにも親切にしてもらい感謝の言葉もみつかりませんでした。ただ唯一の心残りは、もう一度お礼の電話をしておけばよかったということ。その後、店長の女性の方とは一度も会うことがありませんでした。まさに一期一会の出会いでした。

続く・・・・

 

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