留学体験記

【留学体験談・第0話】両親から留学計画を完全否定される

渡米を決めたのは、大学を卒業する二年前でした。その頃から、アルバイトのかけもちが始まります。とにかく、渡米費用を貯めなければなりません。

私の専攻は動物遺伝子学でしたので、卒業論文を書かなければなりませんでした。日中はどうしても大学で卒論のための研究をしなければならなかったので、アルバイトは必然的に早朝と夕方以降になります。

ハードな毎日でしたが、とても充実していました。目標があると、苦しいことでも乗り越えられるものですね。

留学費用のためにまずは魚市場からスタート

この頃の私は、毎朝2時(いや、深夜2時と言った方が良いでしょう)には起床し、仙台の魚市場で魚の仕分け作業のアルバイトをしていました。

作業は巨大冷蔵庫の中で行うため、それだけでも堪えました。特に冬の東北地方は寒さが厳しく、冬に外気温よりも寒い冷蔵庫で仕事をしなければならないのは大変でした(もちろん、がっちり作業着を着ています)。

魚の仕分け作業のときは、氷水に手を突っ込んで魚をつかまなければならなかったため、これが特にきつかった。

掴んだ魚が滑らないように手袋をはめているのですが、それが軍手だったので氷水に手を突っ込むたびに冷えた水が手に沁み込んできます。

さらに、この仕事の後は、身体中が魚臭くなってしまうのが嫌でした。もちろん、大学へ行くときはシャワーを浴び、着替えて行くのですが、それでも何となく生臭さはあったような感じです。

魚市場の次は配送のアルバイト

その後、6時から場所を変え、配達の仕事をやっていました。小学校や中学校へ給食の材料を配送する仕事です。

4tトラックがいっぱいになるくらい荷物を詰め込み、それを仙台市内の学校に配るというのが仕事の内容でした。

給食の材料なので、基本的には10時ころまでに配り終えなければなりません。たまに、コンビニへの配送が入ったので、その時は昼過ぎまでかかることもありましたが・・・。

昼間は大学で卒論

それが終わると、大学へ直行し、卒業論文の実験を行っていました。実験の合間を縫ってトレーニングも継続していました。

この頃、既にボディビル(筋トレ)は、私の生活の一部になっていたので、どんなに忙しくても筋トレは必ず行っていました。

筋トレを継続することで毎日のリズムが整い、忙しいながらも心身共に健康な状態を維持することができていたのだと思います(当時はそんなこと考えてもいませんでしたが)。

この考えは現在も続いています。今でこそ、ボディビルの大会からは遠ざかっていますが(もう出ることはないと思います)、毎朝の筋トレは必ず行っています。

こんな生活を33年間続けているのですから、我ながら立派だと思っています。

夜は家庭教師か塾講師のアルバイト

夜は家庭教師、もしくは塾講師のアルバイトをやっていました。自宅に辿りつくのは、午後10時を過ぎていました。

魚市場や配送のアルバイトは時給900円くらいでしたが、塾講師は時給1500円にはなりました。仙台の田舎でこのバイト代は破格です。

しかし、家庭教師の方はその2倍の時給3000円をもらっていました。当時の家庭教師の相場は、塾講師と同じく1500円程度だったので、これはかなりの高給です。ただ、ちょっとしたカラクリがありました。

普通は家庭教師センターに登録して、そこから家庭教師先を斡旋してもらうのですが、私は地元紙に宣伝を出してみたのです(もちろん有料)。「家庭教師2人で3000円(1人1500円)」という感じで。

すると、これが結構大当たりして、たくさん家庭教師の仕事が舞い込んできました。1人でも2人でも教える労力は大して変わりません。だけど、時給は2倍です。

こんな感じで、とにかく荒稼ぎ(?)していました。

毎月の収入は、30万円は優に超えていたと思います。実は、この頃、まだ両親には渡米計画のことについては、一切言及していなかったため、しっかりと仕送りはもらっていて、必要最低限の生活はそれで賄っていたのです。

よって、アルバイト収入のほぼすべてを渡米資金として蓄えることができました。

両親に渡米(留学)計画のことを話すと・・・

渡米計画を両親に話したところ、その反応は見事にぼくの想像通りでした。反応は以下の文言の通りです。

「大学を卒業したら、とりあえず就職して何年か働いた後、それでもまだアメリカに行きたかったら、そのときにもう一度考えなさい」。

人間の心とは弱いものです。就職などしてしまったら、自分が守りの人生を歩んでしまうことは、想像に難くありませんでした。

就職をして、ある程度の収入を得始めた瞬間、その生活スタイルに固執してしまうのはわかりきっていました。

だから、「このタイミングを逃してしまったら、おそらく渡米することはないだろう」、そんな風に感じていました。そもそも、どこかの企業に就職してサラリーマン生活を送るという人生に何の魅力も感じていなかったのです。

ぼくの父親は、平凡なサラリーマンでした。高度成長期時代、バブル時代を生き抜いてきた人間だったので、その仕事量は半端なものではなかったと思います。

朝は家族が目を覚ます前に家を出て、夜は午前様ということもしばしば。父親の姿を見るのは、日曜日だけなどということもよくありました(寝姿だが…)。

「24時間闘えますか?」を地で行く猛烈サラリーマンだったのです。家族のために必死に働いている父親に対する感謝の念は持っていましたが、「自分はこのような人生は歩みたくない」という父親への反発心も混ざり合った複雑な心境だったのを覚えています。

親に何と言われようとも、自分の決意が揺らぐことはありませんでした。そもそも、渡米の意思を表明したのは、大学卒業の数か月前だったのだ。

その頃、既にパスポートはもちろん、米国入国のためのビザ、そして現地での住居の手配まで全て終えていました。親への意思表明は、渡米前のあいさつ程度の感覚でしかありませんでした。

住み慣れた仙台のアパートを片づけ、ぼくは神奈川県にある実家に一歩も立ち寄ることもなく、そのまま成田空港へと直行しました。

持ち物は手荷物の一個だけ。到底、これから海外生活を送ろうとする人間には見えなかったのではないでしょうか。

フライトの数時間前、ぼくは成田空港から実家に電話をした。「今、成田。これからアメリカに行ってくる」。忘れもしない1992年5月の最終月曜日。

不思議と不安はほとんどなく、希望に満ち溢れていました。しかし、ロサンゼルス到着後に待ち構えている様々なトラブルを、この時点で知る由もありませんでした・・・・。

次回、【留学体験談・第1話】のリンクはこちら。

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